第4回南三陸追悼ツアー 五年を振り返って ①
2016年3月10日 五年目の追悼の日を現地で迎える為、第4回追悼ツアーを催行しました。2011年4月1日南三陸の地に立ち、自分の無力さを感じてから5年、多くの仲間達に支えられて今日まで活動を継続することができました。
バスは定刻に東京駅を出発し、常磐道を経由して南三陸町へと向かいます。今日は今後を見据え、新たなボランティアドライバーさん、H・Kさんが見習い運転をしています。助手席にはスタッフドライバーS・Iさんが見守っています。
皆さんこのフェンス中の黒い袋には放射性物質が詰め込まれていることを御存じでしょうか。累々と積まれたこの光景は立ち入り禁止区域だけに留まらず、帰還困難地域、避難解除地域でも見受けられる、今となっては当たり前の光景なんです。
5年経った今でも、40,000戸の住宅が帰ることのない主人を待ち続けています。
富岡町から先の常磐線の線路には草が生い茂り、この5年間列車が走ることはありませんでした。
富岡駅跡周辺には未だ津波で打ち抜かれた住宅が残っています、物言わぬ語り部。あの時この住宅にお住まいの方々はどのような思いで避難されたのでしょう。
福島第一原発で3月12日大きな爆発があり、沢山の放射性物質が飛散しました。その時の数値を計測する術はなく、発表されているものは過去のデータから推測される数値であったと皆さんはご存じですか?放射性物質が流れる方向へと避難者は移動し、東京、千葉にも高濃度の放射性物質が流れ込んだ事をご存じですか?
自然にあがない、安全神話を提唱し、自然によって叩きのめされた原発。「この程度の放射線量は人体への影響はない」「除染が終了したから、地元に帰還しても良い」低濃度放射線を長期的に浴びる続けることへの警鐘を無視し、第2の安全神話が提唱されようとしています。
除染作業はあと三年で終息させるそうです。東京オリンピック迄にはどうしても間に合わせたい、、何らかの「力」がはたらいています。除染で除去される放射能物質は僅かなもので、あと100年以上この地に留るセシュウムからは放射能が発生し続け、子供達は山や野原で遊ぶことさえできないのです。内部被ばくの調査研究は始まったばかりです。
多くの子供達の命を奪った津波。石巻大川小学校跡で献花・焼香をしお弔いをさせて頂きます。
震災遺構として残されるのか、議論されています。
宮沢賢治の詩「雨にも負けず、風にも負けず」銀河鉄道が描かれた壁画。生徒さん達が描いたものでしょう、何か、命を永らえた方々へのメッセージにも聞こえます。
バスは南三陸へと向かいます、途中現地参加の方々と合流し、宿泊先高倉荘に到着です。さっそくの夕飯には今が旬のワカメのしゃぶしゃぶが供されます。
食事中は禁煙です、吸われる方は廊下でどうぞ!
お湯に通すと緑色に変化し、そのままポン酢で頂きます。
朝獲れの「鱈汁」。白子好きには言葉も出ない美味しさです。さて夕食後のDVD観賞、当時と今とを繋ぐ時間です。
楽しいことを優先する活動とは違い、この地で起こったことを自分に結び付けて頂く為に毎回このような時間を設けています。
大阪から参加されたS・Iさん
山梨から参加されたK・Iさん
京都から参加されたM・Mさん他、全員からメッセージを頂きました。
今回は北海道・北陸・関東・静岡・奈良・大阪・兵庫・九州等と、全国から明日の追悼の日の為に駆けつけて下さいました。あの日から5年目の明日を迎えます。 続く