気仙沼@2013.6 後編
周辺を歩くと、手向けられた花束を見かけます。
残された人達の、大切な人達への変わらない想いを感じます。
こういった写真を撮る時に躊躇がない訳ではありません。
むしろ葛藤し、撮るまでに暫く時間が掛かる事もよくあります。
それでも結局撮影するのは
こういう想いも含めて現地を知っていて欲しいからです。
※玄関(であろう場所)に添えられていた花束が印象に残りました。
震災当時から比べると現地はかなり整備されてきて、
その爪痕を感じる事が難しくなってきています。
けれどもここは間違いなく悲劇のあった場所です。
誰かの大切な人が犠牲となった場所です。
その事を忘れないでいて欲しいという想いで撮影しました。
自己満足、といえばそうなのかもしれません。
もし不快に感じられる方がいらっしゃったら申し訳ありません。
共徳丸の傍に災害公営住宅が建設されるみたいです。
「地元の方の気持ちを優先」とし、
解体・撤去を決めた所有者の心情が理解できる気がしました。
何度か来ていると
この船がここにある『異常』さを感じる事が出来ません。
“慣れ”でしょうか。
「ああ、共徳丸だな」と納得してこの風景を受け容れている自分がいます。
けれども、ちゃんと考えると、
今のこの風景は日常では決してありえない『異常』な風景なんですよね。
この『異常』な風景は、近々行われる共徳丸の解体・撤去でなくなります。
そしていつか、この『異常』な風景があったという事実は
『日常』という日々の記憶に押され、忘れられてしまうのでしょうか。
忘れない努力と伝える努力は
『今いる私達』がしなければいけない義務なのかもしれません。
完