南三陸ワイナリー支援ボランティアツアー①
10月の3連休、今年も南三陸ワイナリーさんの支援でツアーを催行します。あいにくの雨模様ですが、丸の内鍛冶橋駐車場を出発です。
2017年4月に南三陸町地域おこし協力隊によりスタートした南三陸ワインプロジェクト。代表を務める佐々木さんの熱意と町内外の多くの応援で2020年10月に海の見えるワイナリーが南三陸町にオープンしました。
◆南三陸ワイナリーさんウェブサイト◆【https://www.msr-wine.com/】
・昨年のワイナリー支援の時のようす。
ツアーバスは首都高に入りスカイツリーをのぞきますがこんなに靄がかったスカイツリーを近くでみるのは初めてかもしれません。
9時40分過ぎには友部SAで休憩を取ります。渋滞もなく順調に進んでいますが、休憩後、常磐道を北上中も雨脚が弱まることは無くドライバーさんに負担がかかります。
フェローズウィルのツアーでは、福島の「今」を少しでも見て頂ければと常磐道の「常磐富岡インター」をおり、 富岡町 JR常磐線 夜ノ森駅(よのもりえき)付近から、福島第一原発を右手に北上するルートが多いのですが、今回は手前の「広野インター」をおり、楢葉町から国道6号線を北上し福島第二原子力発電所を右手に北へと進み、富岡-大熊ー浪江へと向かいました。2018年頃までは大熊ICは(原発事故による)警戒区域のため降りることができませんでした。そのため大熊町にはなかなか人も戻れず、戻ったとしても生活インフラ(店・施設)もない状態。ようやく大熊ICを通れるようになった頃もあちこちに規制のバリケードがあり、その中ツアーバスを走らせボランティアツアーを行ったことを昨日のことのように覚えています、とベテランスタッフが話していました。
現在も公益目的の一時立入りを行うための大熊スクリーニング場(避難退域時検査場、立ち入り許可証発行必要)があります。こちらの大熊町以外に県内4か所(富岡、浪江、双葉)のスクリーニング場があります。「帰宅困難区域」の全面解除がいつになるのか、解除になったところで人々は戻って来られるのか、除染した土の行方、そして廃炉作業は一体どうなっていくのか。この小さな国で起きた大きな事故を考え続けなければならないですね。
(余談ですが、“双葉町の帰還困難区域で、帰還意向がある住民の家屋や周辺などに設定された「特定帰還居住区域」について、町は(11月)4日、2026年度を目指す避難指示解除に先立ち、一部地域の立ち入り規制を緩和した同区域が設定されている県内6市町村のうち、宅地を含む区域での規制緩和は初めて。”という記事を見かけました。 こういうニュースを見ると少しの安堵と、後ろ向きばかりではいられないと思いますが、実際に居住されていた方々の思いが気がかりです)
上の写真は福島県双葉郡楢葉町にあるJR常磐線 竜田駅付近。原発から最も近い駅の一つです。原発事故の影響で、約6年半運休していたJR常磐線 竜田-富岡駅は、2017年10月21日にようやく運転が再開されることになります。運行再開当時、常磐線の再開とともに復興が進むことを期待を寄せているという地元の方の声も多くあったそうですが、実際はどうでしょうか。富岡町の居住者は令和7年9月現在2673人。6900人の方が県内別市町村に避難しているままです。多くの方がいわき市に避難したそうですが、帰宅困難が解除されても、なかなか若い世代が戻ってこない・いわき市の人口が増えていくという現実もあるようです。原発事故からの復興の難しさを物語っていますね。今回常磐道をおりた広野町では、他市町村と比べて避難解除が早く、インフラ復旧や生活環境の整備が進み、住民登録者に占める居住者の割合は9割を超えるそうです。(2023年時には住基人口が4665人で、町内居住者は4220人。移住者を受け入れて防災に強い安全・安心な共生のまちづくりに取り組みを掲げ、復興創生へとフェーズが変わってきているとのこと。「福島民報」・「福島民友」より抜粋)
さて、道の駅なみえで、お昼休憩をとります。
みちの駅なみえでは、10/12・13に行われる「浜フェス」というイベントの準備が進んでいました。天候は大丈夫だったかと勝手に気にしておりましたが、無事イベントは開催されたもようでよかったです。
この道の駅なみえは雨の日でも人の出入りが多く、お昼時のフードコートは満席。席が空いたら、席を確保!と代わるがわるお客さんが入っていました。長くツアーに携わっている副代表やスタッフは、昼時に席を取るのが大変というくらい盛況していることが嬉しいですね、と話していました。
さて、昼休憩をとったあとは、山元町にある震災遺構の中浜小学校へと移動します。
山元町では住民や委員会で協議を重ねて、宮城県南部に唯一残る被災建物である中浜小学校を、復興交付金事業による震災遺構として保存することにしたそうです。1989年の改築時、地元住民の方からの要望もあり敷地全体を2m程かさ上げして、住民避難を想定した外階段を設けるなど、津波への対策がなされていました。このことが2011年 東日本大震災の減災につながったと言われています。震災後、この地域は居住禁止区域となりましたが、”震災遺構 中浜小学校”は、大津波の被害状況をできる限り残したまま整備して、震災を風化させない、災害に対する備え・意識の大切さを伝える震災遺構として住民の方々を中心に保全に努めておられます。
海からわずか400メートルの中浜小学校。2011年3月11日 14時46分、今まで感じたことのない大きい揺れが発生し、わずか数分後には津波警報から大津波警報に切り替わりました。避難マニュアルには、内陸にある坂元中学校への避難が記されていたそうですが、徒歩で約20分。津波到達は10分後ということも言われていた為、マニュアルとは別の屋上にある屋根裏倉庫への「垂直避難」を当時の校長先生が決断されました。巨大な津波は校舎の2階天井まで達しましたが、中浜小学校にいた児童90人は全員無事でした。津波は、うなるような轟音と共に黒い壁のように押し寄せましたが、子供たちの目に極力触れないよう屋上 倉庫内に誘導し、余震が続く極寒の中、何とか全員が無事に乗り越えられるようにと倉庫内にあった学芸会用の小道具・模造紙・段ボールを床に敷き詰め、津波がおさまった後に体育館にある非常用毛布を見つけ出し1枚の毛布を2・3人使って寒さを凌いだそうです。ただ、当時の校長先生のインタビュー記事など拝見しますと「これが正解だったかということは、なかなか分からない。また同じ事が起きたら、悩むんだと思います」とお話されています。
この2日前に届いた非常用毛布が流されずに利用できたこと、2日前に発生した前震(震度5弱)の際、津波到達時刻が20分以内なら垂直避難、時間に猶予があるならマニュアル通りの避難と教職員方で話をされていたこと。この場所でも偶然という必然が減災につながったと考えさせられます。これで良いという対策は非常に難しいですが、プランA、プランBというように減災につながる策をいくつか講じなければならないですね。
※中浜小で語り部の女性から聞いたお話です。ここでも防災対策の難しさを伺いました。「東日本大震災後の復興事業で、移転先としてつばめの杜という地域が整備され、被災された方が家を建てて住んでおられるそうですが、今後、想定される津波の高さが更新されて、この地域が想定される津波の高さに満たしていない為、家を建てた方は困っているようです。「避難丘」という場所はあるものの、津波の高さを考えると避難場所として機能するのか心配事となっているんです」
〇↓むかって右手は、屋上に続く階段です。
〇↓階段を上り屋上へ。
1時間ほど見学の時間をとり、南三陸町へ向けて再出発です。雨に加えて肌寒い中での遺構見学でしたが、出発予定を過ぎるほど熱心にお話を聞いたり見学されていて、いい時間を過ごせたと思います。山元町出発が予定時刻を押して、今回もお世話になる南三陸町 高倉荘さんへの到着が18時頃なってしまいました。温かいお夕食・お風呂をご用意くださっているのに、申し訳ないです…スケジュールに毎回ご対応頂き本当にありがとうございます。
思いのほか体が冷えてしまったので、温かく美味しいお食事が沁みます。お魚の煮つけも安定の美味しさです。ごちそうさまです^^
明日の天候によって作業が左右されるので少し心配ですが、南三陸ワイナリーさんの応援が出来るよう早めに就寝します。皆さん、おやすみなさい。
2日目に続く。


























