フェローズウィル:南三陸つなぎ隊 稚児祈祷ボランティアツアー報告①
約3年間、コロナ禍の影響で、外出制限、行動制限を余儀なくされたなか、私達はリモートでの活動という新しい試みをもって支援を継続し、販売会等で南三陸の漁師さん達を多くの方々に繋いできました。今年五月の連休に視察に訪れ、街の変容を感じ、新たな取り組み方を模索し「南三陸つなげ隊」という使命を追加し、コロナ禍はまだ収束しておりませんが、ツアーを再開することにしました、参加者は少なくスタッフ含め5名というこじんまりしたものでしたが、充実した催行となりました。
出来ることを出来る人が出来るときにやる・・・ボランティアの基本です。
台風の影響も懸念されていましたが、いつものように私達のツアーは守られているようです、常磐道を福島に向け進みます。
参加にはワクチン接種証明、直前の陰性証明を条件にし、バス車内では検温、除菌と対策をこうじます。
常磐富岡でインターを降り、6号線をはしり、大熊町にはいります、12年目の原発被災地はどうなっているのでしょう。
6号線沿いの建物は変わらず、立ち入り禁止のフェンスも少なくはなりましたが、まだまだ立ち入り禁止の地区は膨大です。
震災の時のまま、建っているパチンコ屋さん、まだ取り壊しもできない状況なんでしょう。
第一原発とその周辺は除染土が積み上げられ、遠くでは除染作業が気が遠くなるくらいの時を掛けて行われています。
帰還困難箇所が減り、立ち入りがゆるされ、常磐線の駅も新設され、街は前にむかっているようにも感じることが多くなりましたが、平凡な日常を取り戻すには途方もない時が必要で、その為には地域の方々の絶えない復興への熱情が、原動力になると思います。 同時にこの惨状を作り出した根幹を決して忘れてはなりません、リスク管理がなぜ出来ていなかったのか、リスクの提言がなぜ取り入れられなかったのか、なぜ、原発はもっとも安全な電力施設と言われていたのか、なぜ、地域に莫大な補助金が使われていたのか、人は明るい話題にすがり、過去を振り返ることを忘れてしまいがちです。 「歴史は繰り返す、予見せんがためにみる」・・これって大事ですよね。
道の駅なみえ、浪江町にできた新しい施設です、相馬焼が展示され、地元のお酒の試飲や飲食コーナーがあり、子供の遊び場があり、物産コーナーや飲食店舗もあり、建物だけではなく、地域に根差した施設作りの意欲を感じます。お薦めは「シラス丼」です・・なんと地元で獲れたシラスかけ放題。
なみえ焼きそばとのコラボ、炭水化物オンパレードです。
お昼直前で、席も空いてましたが、食べ終わるころには満席でした。
道の駅なみえは大勢の人で賑わい、駐車場待ちの状況、大勢の親子ずれ、笑顔をみることができました、その笑顔がこれからの街の復興の原動力になるのでしょうね。
常磐道を北上、仙台東部道路にはいり、名取から閖上にむかいます。 高台の避難場所がなく、8mの津波で多くの命が奪われた地区、今はどうなっているのでしょう。
当時、唯一の高台「日和山」、てっぺんに神社があり、お参りさせて頂きます。
閖上は仙台のベットタウン、伊達政宗が造った「貞山堀」が震災当時、津波除けの運河と思われていましたが、津波はその運河を超え、はるか2~3キロ先まで到達、県北と違って県南の海岸は山もなく平坦な地形、そこに8mの津波が押し寄せました。
慰霊碑の高さが、津波到来の高さ。三階建て以上の施設は少なく、車で高台である名取川に架かる橋のたもとに逃げる間に流され、避難場所が危険と判断し、他の場所に移動する際流され、、多くの命が奪われました。
今は、マンションが建ち、嵩上げされた場所に商業施設や新しい住宅も立ち並んでいますが、瓦礫が撤去されたままの土地には雑草が生い茂っています。
閖上の朝市、船着き場にそってBBQ施設が並び、朝には多くの方々が買い出しや、遊びにきてくださっているのでしょうか、夕方近くにお邪魔したので、お店は閉まり、お客様もいらっしゃらなかったです。
船着き場にはプレジャーボートも並び、運河の向かい側には自転車競技に特化した施設や宿泊所が建てられ多くのチャリダー達をみることができました、震災の傷跡も多く残る中、これからの時に向かって前を向いているパワーを感じることができた閖上でした。
さて、これから南三陸町に向かいます。 続く