第19回ボランティア・ツアー⑤
お昼の後、Eさんから震災当時の話が語られました。
今回のツアーの少し前に、
Eさんから震災当時の体験談を皆さんに話したいと申し出がありました。
Eさんのお住まいは入谷地区で、津波の被害はありませんでした。
もちろん津波の被害がなかったからといって
苦労しなかった訳でも、
辛い想いをしなかった訳でもありません。
沿岸部にいた身内、友人、知人を亡くされた方も多くいらっしゃいます。
津波を免れた人達の多くは
率先して沿岸部の人達の為に救助の手を差し伸べました。
自宅に避難させたり、
残っていた食料を分け与えたり、
危険を顧みず沿岸部へ救助に向かったり・・・。
自分自身も被災しているにも拘らず、様々な形で助けようと努力しました。
ただ、あの状況下では当然全てが上手くいく訳ではありません。
その事で未だに気持ちにしこりを残す人達もいらっしゃいます。
今回Eさんが話したいと言ってくれた事は
Eさんの気持ちが一歩進めた証なのかな、と前向きに受け取りました。
話をするという事は
同時に気持ちを整理する事に繋がるのではないかと思っています。
ゆっくりでもいいから、支離滅裂でもいいから
少しずつでも話をしてくれることを願い、待つことにしています。
とか言いながら
私も話す事が出来ません(笑)
これは前述の整理云々とは違って、単に感情が先走るからです(笑)
代わりに、というのもなんですが、
Eさんのお話を伺っていた時に思い出していた事をここに書こうと思いました。
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震災の影響でストップしていた宅配便が再開し、
実家から果物が送られてきました。
気持ちに感謝しつつも消費期限というものがあるので、
食べきれない分をどうしょうか考えていた時、
少し前にテレビで放送されていた入谷地区の避難所に届ける事を思いつきました。
その避難所は殆んどが高齢者で、人数もそれほど多くない様子だったので、
分ければ量的(りんご3個と八朔4個)にも問題ないかと思い、避難所へ向かいました。
避難所に到着すると、50代くらいの男性が出てきて、
この避難所には現在30世帯、約60名の人が滞在していると教えてくれました。
テレビでは全てを映していなかったのか、
放送後に人数が増えたのか分かりませんが、
持ってきた果物の分量が全く足りなくなってしまった事だけは理解しました。
(こんな僅かな量を渡すとかえって面倒を起こすだけではないのか・・・。)
(高齢者や病気の人を優先的に渡してもらうとか・・・。)
少しの間、逡巡しましたが、
結局、折角持ってきたんだからという自己都合で渡すことにし、
帰ろうとした時、男性が避難所の現状を話しだしました。
「この避難所には支援も入らず情報もなく、支援物資も程んど届かない。
何もかもが圧倒的に不足している」という事を必死に訴えてきました。
私は相槌を打ちながら聞く事しか出来ませんでした。
そして男性は最後にこう言いました。
「(行政に)こちらの現状を伝えて、支援物資を届ける様に言ってもらえませんか?」
すぐには言葉が出ませんでした。
遅れて出た返答は自分でも呆れるばかりの返答でした。
その返答と間抜けな励ましの言葉を残し、帰路に着きました。
帰りの道中、男性の最後の言葉が頭を離れませんでした。
思いつきで果物を届けただけの、
どこの馬の骨とも分からない、初対面の自分にどうしてそんな重大な事を頼むのか。
(そんな事、私なんかに出来る訳ないでしょう?)
そんな重大な事を頼んできた男性に苛立ちさえ感じていました。
この頃の私は南三陸町の地理はおろか、地名すら分からず、
何がどこにあるのかも全く分かりませんでした。
当然知り合いも誰一人いません。
どこに、誰に、現状を訴えて物資の要請を伝えればいいのか・・・。
訴え先も、方法も、全く思いつきませんでした。
男性へ感じた苛立ちは
知っているのに何も出来ない、中途半端で無力な自分に向けてのものでした。
そしてあの男性は
どこの馬の骨とも分からない、初対面の人にまで訴えないといけないほど
切羽詰まっていたんだと思います。
男性のあの表情と言葉を、未だに忘れる事が出来ません。
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続きます。